天上天下唯我独尊

    天上天下唯我独尊」は、お釈迦様の誕生時に発せられたとされる言葉で、文字通りの「自分だけが尊い」という意味ではなく、「人間は一人一人、誰にも代わることのできない尊い存在である」という、すべての人間の平等性を説いた教えです。この言葉は、自分自身を大切にすると同時に、他者も尊重すべきであるというメッセージを含んでいます。

Google検索の結果『AI による概要』欄より抜粋。(2025年11月8日閲覧)

 

 こんなGoogleに掲載されるような公な言葉に横恋慕するのはこれは文化的な過失だと理解しますから僭越ながら申し上げます。

 その誤りだと指摘したい所は、『文字通りの「自分だけが尊い」という意味ではなく、』の『自分だけが尊い』と語られるところです。

 私は「文字の通りであって、自分だけが尊い」という意味でお釈迦様は語られたと理解しています。と言いますのは、お釈迦様がこの言葉を発せられた際というのは、悟りを得られた間際だと思います。

 そのまぎわ、《悟りを得たわたし、ゴーダマシッダルダは何と幸せ者だろうか》と歓喜の中でご自分を愛おしく思われ、涙を拳で握りしめられ、打ちひしがれる瞬間だと思うのです。

 『文字通りの「自分だけが尊い」という意味ではなく、』との説明は間違っていると疑ってみすと、お釈迦さまほどの偉い人が、御自分のことを『自分だけが尊い』と狭い考えで語られる道理がない、と感じ取られる偏見だと思います。

 偏見が組み込まれていたのではお釈迦様の真意が伝わらないと思います。 

 お釈迦様が悟りを開かれた時には、お釈迦さま自身も人間ですから信じられないほどの感動と驚きに包まれたのだと想像します。

 そこに『この私(お釈迦さま)の存在があってこその悟りだ、なんと私(お釈迦さま)自身がこの世に存在していたことの有り難さか!』と、喜びと感動に溢れて『天上天下唯我独尊』の言葉が口をついて出たのだと理解します。

 この世の神々しさ、怖れ、〈なんと私はこの素晴らしき世界に降り立てせていただいたのだろうか!〉 という、私は果報者だと感動された言葉が『天上天下唯我独尊』という言葉になって現れただと分かります。

 生まれるも死ぬも理解できない中で、生きているというのは、生きている立場からしかモノ思わない短絡的な言葉です。

 「私は生かされている」という言葉は、生きていることを理解している、承知できているという思い上がった言い方に聞こえます。

 知ることが出来ないという立場は、命の存在する場所です。ソクラテスさんは『知らないことを知らない』と語られたそうです。

 何かに触れたかと思っても何モノにも触れることのできない立場、触れていないと思っても紛れていること自体がこの世界だと気がつかれた、喜びと悲しみに包まれた世界なのだと思います。

 気が付いてみれば、頬をなでる風も降る雨も空の青さも感動せずにはおられない。私の身体があってこその、感動せずにはおれない。気付いた私自身よ、本当にありがとうという私自身を俯瞰して喜ぶ、何と尊い私の身体なのかと驚かずにはおれない感激の言葉が、天上天下唯我独尊という言葉になって現れたのだと思います。

 この地上に今生きているという不思議な驚き、喜びに気が付いた、言葉では表現しきれない思いを表現された言葉だと思うのです。

 私自身の存在なくしては、生きている喜びを感じ取ることは出来ない。それを私(お釈迦様)は感じ取ることができた。何と私自身の存在の有り難いことかと。私自身の存在の尊いことかとただ独り私の存在があってこそのこの世だ、という感涙の言葉だと理解します。


コメント

タイトルとURLをコピーしました