私が酒、タバコを止めるなどは傍目にはどうってことのない事ですが、私にとっては一大事です。
自分の思いの覆る(くつがえる)「〝我〞が抜け落ちる」といったことも傍目にはどうってことない事ですが、私にとっては大事件でした。
「〝我〞が抜け落ちる」など、どうってことないのだろうか? いいや否です。
「〝我〞が抜け落ちる」という事件がありましてから、私の世界は激変しました。私の人生は世界です。私の命あってのこの宇宙です。
他人との関りも、おお有りですが私の人生が宇宙でした。
「〝我〞の抜け落ちる」事件は一人芝居で世の中がひっくり返るような幻覚ではありましたが、それは現実でした。
滝のような涙がグシャグシャにあふれる体験が一年は続き、一人バカ笑いも度々です。 私という性格が変わった、いいや、何も変わりません。私本来の性格が露わになっただけです。涙があふれました。
新宿駅からの始発の西部池袋線の電車に揺られていました。吊り革につかまり片手で本を開いるとページが薄青くなっています。腰のあたりには短冊のような白い切れ端が二枚三枚、舞い降りていきます。
用をなさなくなって瘡蓋(かさぶた)になった「私の知識」が、私に見破られてホウホウの体(てい)で剥がれて行くと思えた出来事でした。足元に落ちていく短冊を見ていました。
電車の出入り口の手摺(てす)りも窓のガラスも、長椅子の端にもたれて腕組みする乗客も、青の霞に染まっています。 頭の中でギシギシっと池の氷が軋むような音が弾けました。
「これは何だ、理解できない何モノかに遭遇してしまった。
理解しようとして目は見開いたままです。本を片手に吊革を触ったまま、何かの警告か? 何かの忠告か? など、思いましたが意味が分かりません。目をひん剝いた緊張の固まりです。
徐々に霞は薄れて普通の電車の様子になってきました。
これは何かの啓示なのか、とも思いましたが、立派な考えが湧くでもありません。 お釈迦さまのような悟りの言葉が出るでもなく、何度も自問してみましたが聞いてみる人もいません。あんな事態に何故で合ったのか今もって不思議でなりません。
出来事があってからです。『エジソンは偉い人 (^^♪』などの歌が流行っていて、それをバカにする私が現れました。
「エジソンのどこが偉い! 知識をひけらかして、届かない声を届け幻想を広げた詐欺師ではないか!」と、一人憤慨する自分が現れました。
かと思うと田舎時分に優しくしてくれた近所の人の、あの日のこと、そんなこと、こんなことを多い起こしては申し訳なかったり有難かったりで涙が噴き出ます。
涙があふれるだけで棚から牡丹餅式(ぼたもちしき)に悟りが開ける分けもないと思いました。これはどこかで聞いたことのある、「〝我〞を捨てる」という状況なのだろうと思い返しました。
遠くの樹木の葉が万華鏡のようにキラキラと輝いて見えます。視力が良くなった。道路の欄干やトラックの荷台の角が鋭く感じられ、触るのを躊躇(ためら)います。
左足の次は右足と考えもなしに動かしますが、身体は幼児期への回帰なのでしょうか、左と右の足がもつれます。スキップの下手なギコチなさです。
トンボや蝉は脱皮したばかりの薄青いうちに、子供の私の手で触れると黒く変色して飛び立たなくなります。それと同じで、歩き始めの幼い日に誰かが私に手を貸してくれて、自然な動きを体得していなかった、そう思えました。
背中のほうから呼ばれる私の名前がハッキリ聞こえます。「はい!」と勢いよく返事のできる自分になっています。若いころからの肩こりも消えています。
気持ちの底で日頃の生活は何とはなしに「何でもかんでもあるある」と思っていた、使いモノにならなくなった「真面目」が、瘡蓋(かさぶた)になって剥がれて落ちて行った。
興奮した「何もないじゃないか‼」という思いに包まれました。転んで手をついたところに希望を掴んだような、筋肉の隙間(すきま)に「何もないじゃないか」という思いに入り込まれたような。
台所の勝手口から光の影が忍び込み、図々しく炊飯器の蓋を開けて杓文字(しゃもじ)を突っ込むような、魂消(たまげ)た出来事でした。
スーパーマンになったような一人満面の笑顔に包まれる有頂天の私に巡り会えました。
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