取り立てることでもありませんが。「水」は野や山や周辺から集められ美味しいと言われる不思議です。
「生きる」という言葉も『生かされて生きる、二度とない人生だから』と語られる言葉があります。
生きていることを理解している、知っていると意識した言葉です。
子供の頃、近所に赤ちゃんの生まれたのを覚えています。私自身が生まれたのはというと、覚えはありません。
この先死んで行くとは理解していますが、死ぬときというのは自分では分からないのだろうと思います。
目玉が額と頬の上下の間にあるとは、意識して生きてはいません。命が私にあるとも意識していません。
「自分は生きている」と思うのですが、自分の命を把握できていて「自分は生きている」と言っているのではありません。
「自分が生きている」とか「生まれる」ということの表現は叶うはずもありません。
表現しても「ストライク」判定にはならず、暴投よりもましな「ボール」判定ならましだとして表現しますならば、宇宙の塵芥(ちりあくた)を搔き集め、それを玉子の中に閉じ込めて「ご和算でねがいましては」と唱え、すべてを真っ新に戻されるのが「生まれる」ことに思います。
芋虫が蛹の中に引きこもり、ガラガラポンの完全変態して羽虫になって飛び立つ。
『生かされて生きる』といった言われ方があります、だから『感謝』なのだと言われます。「生まれる」「生きている」というのは「ご和算で願いましては」のところの真っ新から始まります。真っ新ですから「生きる」という意識は持てない、持てたとしますと、それは後だしジャンケンです。
そもそもは何も分からないのが現状ですから、「生きていることに感謝」というのは可笑しな言葉だと分かります。
でも可笑しな言葉は使用されます。可笑しな言葉を使用されるのは、人に「自我の確立」ということが発生しますから、それは人間という動物になるための二度目の誕生です。
二度目に誕生した思考の中は、正確に物事を表現の叶わない中でした
『生かされて生きる二度とない人生』が、イコール=感謝となって、イコールから感謝までの間の隔たりが大きすぎます。
分かるとは、分けるから分かるのだそうです。
〝わからない〞、〝わかる〞ということは何か。これは、〝分けられない〞、〝分けられる〞と見てさしつかえなかろう。すなわち分割できる、分割できない、である。分割できていない場合は、〝分割して区別していない状態で〞、〝わかっていない〞ときである。(福岡正信著、無Ⅰ神の革命、春秋社、p╲128)
『生きている』とは、生きていないことと生きていることを二つに分けて、『生きている』と分かるとなります。
これは獣には理解できない、人間だという証しだと想像しています。
それだから人間は賢いと言った話しではありません。むしろ悲惨という言葉に近いと思えています。
世は分け入って分かるコンピューターの世の中になりました。
分け入った先には更に分け入ったサイバー攻撃といったこともあって、分け入る先の尽きることのない悲惨な世界が待ち受けるように思えます。
苦労のない楽しい世界になるとはとても考えられない、人の行く末に思えます。
といって悲観ばかりもしていられません。
人の行く末という運命は文明に救われるということは無くて、己の頭脳によって滅びるように思えます。
頭脳を徐脳したら人ではいられなくなります。
もしかしてですが、鳥はにっちもさっちも行かなくなって、生きる場所に空を選んだと言われます。
にっちもさっちも行かなくなった人は、どんな道を選ぶのだろうか。羽をはやして空を飛ぶ、ことなどは理屈で考えて行動しようとしても出来ることではありません。
私がどう考えても答えが出て来るわけでもありません。
自然の力が湧いて出るのかも知れませんが、滅びるのかも知れません。その前に私は死んでしまいます。
生きている間の夢想する喜びを与えられることは喜びです。喜びだと錯覚する我が儘は捨てきれない人間なのだと悲しんでも喜んでもいられない人間のようです。
神様の馬鹿野郎! と叫ばずにはいられません。

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