取り立てることでもありませんが。野山で暮らす生活なら、「水」は山の頂から集められ、深い海から汲み上げられて美味しいと言われる不思議です。
不思議な言われ方とは思われない知れませんが、「生きる」という言葉も不思議な用いられ方があります。
『生かされて生きる二度とない人生だから』とも語られる言葉もあります。生きていることを当然理解している、知っているとも思われる、人としての理解に立った言葉です。
子供の頃、近所に赤ちゃんの生まれたのを覚えています。私自身が生まれたのはというと、覚えはありません。
この先死んで行くとは理解していますが、死ぬときというのは自分では分からないのだろうと思っています。
目玉が額と頬の上下の間にあるとは意識して、生きてはいません。命が私にあるとも意識していません。
意識できない自分の命ですが、『生かされて生きる二度とない人生』といった言葉をあてがい、だから感謝なのだと言っています。
『生かされて生きる二度とない人生』が、イコール=感謝となって、イコールから感謝までの間の隔たりが大きすぎます。
分かるとは、分けるから分かるのだそうです。
〝わからない〞、〝わかる〞ということは何か。これは、〝分けられない〞、〝分けられる〞と見てさしつかえなかろう。すなわち分割できる、分割できない、である。分割できていない場合は、〝分割して区別していない状態で〞、〝わかっていない〞ときである。(福岡正信著、無Ⅰ神の革命、春秋社、p╲128)
『生きている』とは、生きていないことと生きていることを二つに分けて、『生きている』と分かるとなります。
これは獣には理解できない、人間だという証しだと想像しています。
それだから人間は賢いと言った話しではありません。むしろ悲惨という言葉に近いと思えています。
世は分け入って分かるコンピューターの世の中になりました。
分け入った先には更に分け入ったサイバー攻撃といったこともあって、分け入る先の尽きることのない悲惨な世界が待ち受けるように思えます。
苦労のない楽しい世界になるとはとても考えられない、人の行く末に思えます。
といって悲観ばかりもしていられません。
人の行く末という運命は文明に救われるということは無くて、己の頭脳によって滅びるように思えます。
頭脳を徐脳したら人ではいられなくなります。
もしかしてですが、鳥はにっちもさっちも行かなくなって、生きる場所に空を選んだと言われます。
にっちもさっちも行かなくなった人は、どんな道を選ぶのだろうか。羽をはやして空を飛ぶ、ことなどは理屈で考えて行動しようとしても出来ることではありません。
私がどう考えても答えが出て来るわけでもありません。
自然の力が湧いて出るのかも知れませんが、滅びるのかも知れません。その前に私は死んでしまいます。
生きている間の夢想する喜びを与えられることは喜びです。喜びだと錯覚する我が儘は捨てきれない人間なのだと悲しんでも喜んでもいられない人間のようです。
神様の馬鹿野郎! と叫ばずにはいられません。

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